オステオパシーレクチャー

 第3回オステオパシーを学ぶうえで、ミシガンモデルの続き

 

 

Dr.グリーンマンはもともと、フィラデルフィアのオステオパシー大学を卒業しています。

この大学もカークスビルやシカゴにならぶ、歴史もあり、優秀なオステオパスを輩出しています。

頭蓋で有名なDr.アーバックルもこの大学の卒業生であり、そこで教えていました。

 

Dr.グリーンマンのメンターのひとり、Dr.アンガス キャッシーは解剖学の権威であり、米国オステオパシー界に多大なる影響を与えています。そして彼の功績を讃えAAOから彼の論文集がだされています。

Dr.グリーンマンは彼に影響を受け、解剖学やバイオメカニクスの権威として世界でしられています。

 

彼は直接法に優れていました。それだけではなく、先見の明もありました。

 

彼の時代にはフライエットの法則も無く、マッスル エナジーというテクニックもありませんでした。

 

彼はいち早く、それに気がつき、それを学び、ミシガンの地に導入しました。

 

マッスル エナジーはフレッド ミッチェル シニアから始まります。彼はもともとエンジニアで、彼の息子が病気で死にかけた時テネシーのオステオパスに助けてもらい、オステオパシーの手技やチャップマン反射療法によって息子は助けられました。

そして、シニアはオステオパスになろうと志ました。

 

そのシニアの考えだしたテクニック、はトーマス ルディーのテクニックに由来するといわれています。

私は若い頃にDr.古賀から学びました。

 

そのルディーのテクニックとフライエットの法則などを含め解剖学的、生理学的にまとめあげていきました。

そのまとめあげていくなかで、Dr.キンバリーの協力を忘れてはなりません。

 

ある意味、マッスル エナジーはシニアとして知られていますが、Dr.キンバリーも自分なりにマッスル エナジーを考えだしていました。

 

2つのマッスル エナジーが存在していたことになります。

Dr.キンバリーはマッスル エナジーとチャップマン反射でコースを作ることを計画していました。

戦争に阻められその計画は頓挫してしまったようですが…。

 

Dr.グリーンマンの主催によるマッスル エナジーのインストラクター養成コースは最初、1970年にアイオワ州フォートドッチで行われました。

 

Dr.グリーンマン、Dr.グッドリッチ、Dr.ミラー、Dr.スタイルズ、Dr.サットンらが個人教授をうけました。

 

というふうに、数少ない養成でした。

ミシガン州立大学にはその中で、直接シニアから教授された、Dr.グリーンマン、Dr.グッドリッチ、Dr.ワード、Dr.スタイルズが含まれてています。

 

最初のインストラクター養成コースには息子のジュニアは含まれていませんでした。理由は知っていますが、私的な内容のため公開するねを控えさせて貰います。

けれども、ジュニアのマッスル エナジーにたいしての功績は素晴らしいことはたしかです。彼はこのテクニックを進化させてきました。そして、そのテクニックをミシガン州立大学で教授してきました。

Dr.キンバリーもDr.グリーンマンの養成でミシガン州立大学で教授していましたので、ミシガン州立大学には、シニアのやりかたとキンバリーのやりかたの2つが存在しています。

 

その2つの方法を私達スタディーグループの講師である、Dr.スティールが受け継いでいます。私達スタディーグループでは両方のテクニックを習得することができます。

 

ある意味、ミシガン州立大学はマッスル エナジーのメッカのようです。

 

ヨーロッパにマッスル エナジーも渡り、ゲイマンズ法、ドルボザーク法、ボードリン法などいろいろ開発されてきましたが、ミシガン州立大学が、そしてDr.グリーンマンが彼らに教えたことにより、いろいろな応用が開発されました。

 

ミシガンモデルはマッスル エナジーだけではなく、ファンクショナル テクニックにおいても沢山の情報を持っています。

 

東部のボールズのテクニック、中部はスティルの孫、スティル ラフリン テクニック、西部のフーバーのテクニックがあります。

 

ミシガン州立大学ではフーバーの息子、ロンが教えていました。

ボールズのテクニックはジョンストンが教え、

スティル ラフリン テクニックはスタイルズが教えていました。

素晴らしい教授陣が揃っていたと言えるでしょう。

 

そして筋膜リリースの大家として知られるDr.ワードが教授し、

関節の遊びとして知られている。Dr.メンネル

この方法は、Dr.古賀も推奨していましたし、私は彼から教授され、Dr.グリーンマンからも教授されました。素晴らしい技法です。

 

そして、理学療法の世界で有名なDr.ヤンダにもいち早く、目をつけ、彼を何処よりも早く教授するよう要請しています。

 

なぜなら、Dr.ヤンダは東の宝であり、ロシア、東欧の秘宝でした。

彼のメソッドは秘密でした。彼が国際学会に出席する時は彼の家族はKGBの人質となり、彼がもし重要なことを喋ったら、家族を射殺すると脅されていたそうです。

だから、西側にはなかなか彼の情報は入ってこず、一部しか入ってきていませんでした。

1986年、ベルリンの壁崩壊までは、崩壊後はDr.ヤンダも自由な身となり西側に教えることができるようになりました。

Dr.グリーンマンはいち早く、彼のメソッドを導入したひとです。

 

次回は参考文献などを紹介しながら話していきましょう。