サザーランド・メモリアル・レクチャーの全文 和訳

 

2016年 Sutherland メモリアル・レクチャー
2016年6月18日 カリフォルニア州レドンドビーチ

国際的 D.O. の旅
生命の息吹;愛の息吹

Daniel A. RONSMANS, D.O. (ESO-UK)
2013年 特別功労賞
ベルギー・オステオパシー協会会員
Sutherland Cranial Teaching Foundation Belgium 会長
 

みなさん、こんにちは。
 
わたしはあなたがた全員がランチを楽しむことを望んでいます。
そして、その後で手短に参加してくれたことに感謝しようと思います。
 
最初に、Mark RosenとMel Friedmanの非常に親切な紹介に心からの感謝を示したいと思います。
彼らの言葉はこのグループの中で常に示されてきた典型的な仲間意識と好意を表しており、私は今日そのような感情の対象になることに対して非常に謙虚な気持ちになります。
 
その上、今日あなた方に演説するために選ばれたことに対して本当に感激しています。
そして、Melが指摘したように、米国でもなく医師でもないDOとして初めてSutherlandメモリアル・レクチャーを与えられたことに対して、非常に明確な栄誉を感じています。
私はオステオパシー医学、特に頭蓋領域のオステオパシーに関連した数多くの非常に興味深い国際情勢を示す機会を持てたことに対して、特に興奮しています。
 
しかしながら、これらのトピックスを始める前に、私は立ち止まり、第二次世界大戦の際にヨーロッパにやって来て、我々を支援し救ってくれたアメリカ軍の先人達に敬意を表したいと思います。バストーニュのベルギーシティは、実際にパットン将軍がナチスの降伏勧告に対して有名な「NUTS!(ふざけるな!)」という返事をした場所です。
私は彼らとすべてのアメリカ人がこの破壊的な衝突の中で、我々と我々の近隣国家のために犠牲になったことに対して言葉では言い表せないほどに感謝しています。
もしそれがなければ我々が今日経験している極めて心強い協力は可能ではなかったかもしれない彼らの気高さと犠牲に対して数秒の黙祷をしましょう。

ありがとう。

 
では次に、決して今以上ではないが、この数十年間進展してきた国際的な医学協力のいくつかの素晴らしい例に関するプレゼンテーションに移りましょう。


導入
 

続けていく前に、前もって私が犯すかもしれないあらゆる英語の間違いに対して謝罪しておきたい。
今日すべての人が私の言うことを確実に理解できる助けになるように、私は昨年アドバンス英語集中コースを取り始めさえした!
 
以下は、一人のオステオパシー実践者になることを目指した私の旅からのいくつかのハイライトである。
私のSCTFとOCAとの協力は別にして、私のキャリアパスが、自分のアプローチを変えてオステオパスまたはオステオパシー医師になると決めた米国外の多くの実践者のそれを反映していることに今日の議論は関連している。
その決定は、ほとんどすべての例において、我々が自分の通常の診療で得ていた結果への不満に基づいていた。
我々はもっと違った健康へのアプローチ、すなわち身体の自然の治癒力への最大の敬意を伴う、
症状別よりもむしろ原因のレベルでの非侵襲的治療が、我々が以前に行っていたものよりもはるかに有効なアプローチであることを発見するために来た。
 
残念ながら、これは、少なくとも現在では、「あまり選ばれない道」でもある。
ホリスティック治療の明らかな利点は広く知れ渡っておらず、あるいはより悪く思われてさえあり、そして典型的な西洋医学の支持者には単に無視されている。
その上、我々が毎日実際に見ているように、MDにとって「過剰に専門化」することと身体を「スライス」して治療することは自然なことである。
オステオパスが最も当惑することは、泌尿器科、婦人科または胃腸科の診療をしているにもかかわらず、デルマトームや機能的疾患の反射的投影について一度も聞いたことがないというMDと対峙することである。
多くの場合、そのような開業医による治療の第一様式は、当然の事ながら、薬か手術であり、免疫系の活性化とそれによる自然な治癒力の活性化ではない。
しかし幸いなことに、若干のMDはオステオパシーのメソッドの明白な成功によってより気を配るようになり、その結果、我々の実力を認めるようになってきている。
これらの見解は、実際に、多くの国際的なMDが自分自身をオステオパシー医師のように訓練することにも至らせた!
 
これを述べた上で、私は次に典型的なオステオパシーへの国際的な道の主題に戻りたい。
それは、私自身の道でもあった。


理学療法からオステオパシーへ
 

私はベルギーで生まれた。70年前のことである。
私は小学校と高校をブリュッセルで通い、20歳で教員免状を得るために勉強を続けた。
しかしながら、多くの若者と同じように、私はそれから全く違った方向に向かうことを決めた。
そして4年後、1970年、ブリュッセルのInstitut Superieur de Kinesitherapieで理学療法の学位を修めた。
 
私は理学療法におけるすべての学習をフィアンセであるAnnieと一緒に行っていて、そして我々はBelgian National Health Serviceから理学療法士の認定を受けると直ぐに結婚したことをここで言っておくべきである。
我々は現在50年一緒にいて、そのうち46年間夫婦でいる。我々には1人の息子Mirkoと1人の娘Magali、そして4人の美しい孫がいる。
そう、ご覧の通り、我々のアカデミックな協力は最も友好的なものだった…
 
1970年に戻ると、すべてのベルギー人は1年間の強制的な兵役を果たさなければならなかった。
私は兵役のためにブリュッセルにあるベルギーの有名な陸軍病院に参加した。
そこで、私は非常に多くの負傷者に会い、治療を行った。これらの人々は戦闘で負傷したのではなく、危険な軍事訓練作戦の犠牲者であり、時には重傷を負うこともあった。
この経験は、私にこれらの若い兵士と士官に対する非常に大きな感情移入をもたらした。
彼らの一部はそれらの負傷により一生身体障害者になった。残念なことに、教えられてきたことを信じ、自分のテクニックがどんなタイプの損傷にも効果的であると信じている多くの「優秀」と呼ばれる理学療法士と同様に、これらの人々に自分のテクニックを適用した時、
私は代わりに自分が提供できる治療の限界を認めることになった。
 
兵役の最後に、私はブレン・ラルーとワーテルローの病院と協力してプライベートの理学療法を始めた。
そこでは、病院の外科医がリハビリテーションのための最悪の外傷と整形外科症例を私に話した。骨折した脚や身体の治療を助けることは刺激的でやりがいがあったが、多くの特定の損傷や機能的障害のためには、私は自分の出した結果に満足することができなかった。それから私は理学療法の中で専門化された訓練や卒後コースを探し始めた。
その解決策は自分の既存のスキルのセットを更に向上させることであると信じて。
 
しかしながら、非常に幸運なことに、この頃、私はちょうどケントのメイドストーン(英国のロンドンの近く)にあるEuropean School of Osteopathy (E. S. O.) に入学したばかりのベルギーの同僚の数人と会った。彼らの経験に基づいて、私はすぐにオステオパシーとE. S. O. で提供されるプログラムをリサーチし始め、自分が発見したものに対して非常に興味をそそられ、感銘を受けた。私はそのプログラムに応募し、次の年に受け入れられた。
 
しかしながら、E. S. O. について話す前に、オステオパシーが英国に、そして実際にヨーロッパ全体に来た歴史について少しの時間を取らせて欲しい。
そのストーリーはJohn Martin Littlejohnから始まる。
彼はグラスゴー大学の解剖学者および生理学者であった。
彼はニューヨークのコロンビア大学に入学するためにスコットランドを離れ、そこで1894年にPhDを修めた。
しかしながら、彼は健康がすぐれず、1897年にミズーリ州カークスビルの有名で革命的なMDに治療を求めることに決めた。
それがDr. A. T. Stillであった。
彼はその結果による改善に非常に感動し、Dr. Stillが新しく創設したAmerican School of Osteopathyに入学することを決めた。
彼はW. G. Sutherlandと同じクラスで1900年に学習を終え、その後、彼はChicago College of Osteopathic Medicineを創設するためにシカゴへ移った。
彼は1913年に英国に戻り、1917年にロンドンでBritish School of Osteopathy(すなわちBSO)を設立した。
そして1920年代には、英国で診療を行うオステオパスは、米国で訓練されたDO、BSOで訓練されたDO、そして名声を得たオステオパスの見習いを通して訓練された若干の実践者から構成されていた。
 
そして次に、我々はEuropean School of Osteopathyの設立に進むことができる。
この学校は1951年にパリでPaul Geny(フランスのPTおよび鍼師)によって「Ecole Française d’Ostéopathie」として創設された。
しかしながら、その時点で、オステオパシーはフランスでは違法であった。
Mr. Genyは1965年に施設をロンドンへ移転させた。
そこで数年は、オステオパシーを学びたい理学療法士のための定時制学校として存在していた。
それから、1971年に学校はその最終的な場所であるケントのメイドストーンに移転し、「Ecole Européenne d’Ostéopathie」と名前を変えた。
 
この後、1974年にEcoleは最終的な名前の変更を受けた。
それは「The European School of Osteopathy」となり、オステオパシーのプロのディプロマに繋がる全日制の4年間のプログラムを提供し始めた。
それから19年後(1993年)に、その学校はオステオパシーの理学士(B.Sc.)を承認することを、ウェールズ大学によって公認された。
そのすぐ後の1994年には、グリニッジ大学によってオステオパシーの理学修士の公認を受けた。
そして最後に、1999年にESOは国際的に認定されたPh.D.プログラムを始めた。
 
私の親友であるPierre Dudy(今日ここに来ている)は、私をオステオパシーを学習する気にさせた同僚のうちの一人であり、E. S. O.で私の1年先輩であった。
彼はそこで1978年にDOを得て、私は1979年に完了した。
それは象徴的な数字である33歳のことであった。
 
特にこの文脈において、「33」という数字がなぜ象徴的なのかを明らかにするために少し時間をいただきたい。
まず第一に、人間は33個の脊椎を持っている。
これは重要なことである。
そうですよね?
さらに、フランス語を話す国において、患者の呼吸を検査する時、フランス語で「trente-trois」(すなわち「33」)と言うように尋ねる。
33という数字はまた、いくつかの興味深い神秘的関連がある。
例えば、ナザレのイエスは33歳で亡くなったと考えられている。
さらに、フリーメイソンリーとして知られる33の進行的階級を持つ古代の友愛結社がある。それはすべての人類のための倫理的で慈善的な活動を奨励する。
実際に、すでに知っているかもしれないが、米大統領George WashingtonやFranklin Delano Rooseveltを含む多くの高度なことをやり遂げたアメリカ人と同様に我々の名誉ある老先生、A. T. Stillはフリーメイソンであった。


次のステップ:D. O.

 
しかし、現実の世界に戻ろう…自分自身に約束していたため、私はESOで訓練を完了後、フルタイムのDOになるために卒後理学療法実習をやめた。
私はDr. A. T. Stillの哲学と彼の健全への全体的アプローチを説明し、実行する準備ができていた。
しかし、私はW. G.SutherlandのOCFの原理にはまだ触れていなかった(したがって、まだ診療していなかった)。
 
理学療法士からDOへ移行することのプロとしてのリスクは計り知れなかった。
私はパラメディカルの従事者として9年間働いた。MDからの処方に従って紹介された患者を引き受けていた。
そしてこの地位の変化(理学療法を提供するPTから最前線のオステオパシー実践者)は、必然的に多くのコンタクトの喪失をもたらした。
 
この点で興味深いことには、その時点では数少なく珍しかったカイロプラクターも(控えめに)ベルギーで診療していた。
彼らも、我々のように、脊椎へのアプローチの専門家として知られていた。
ベルギーの法律は、今でもそうだが、脊椎マニピュレーションの診療に関して非常に厳しかった。
そのため、誰もカイロプラクティックやオステオパシーという名前を言わなかった。
我々は双方とも代わりにマニュアル・マニピュレーション治療と称した。
 
しかしながら、この直後、1980年に、我々の新たに創設された「Belgian Society of Osteopathy and Research in Manual Therapies」(SBORTMとしても知られている)が大いなる誇りを持って組織され、ブリュッセルで最初のオステオパシーの国際会議を主催した。
出席者は多くの著明な英国のDOと米国のオステオパシー医師であり、Gary Ostrow, DO、John Upledger, DO, FAAO、Fred Mitchell, Jr., DO, FAAO, FCA、そしてLawrence Jones, DOが含まれていた。
これはベルギーにおいてオステオパシーの開かれた承認に向かう最初のステップであったが、それ故に危険を伴うものであった。
しかしながら、それにもかかわらず、会議の成功は我々の最も高い予想を上回った。
 
この会議の「凶悪さ」に刺激されて、ベルギー中の多くのMD達がオステオパスに対して苦情を訴え始めた。
彼らの訴訟における「医学の違法な実践」を引き合いに出しながら。
彼らはそうすることができた。なぜなら、その時代のベルギーでは、MDだけが合法的に「マニュアル・マニピュレーション治療」を施す許可を与えられていたからである。
しかし彼らはそのテクニックを全く訓練していなかった!その結果、我々Belgian Society of Osteopathy and Research in Manual Therapiesのメンバーは、これらの告発に応じるために、極めて公的な「Ordre des Médecins」(ここ米国における米国医師会に相当する)に出向くよう通知を受けた。

我々の若い3人の実践者、Jean Burnotte, DO、Pierre Corriat, DO、そして私は、この評議会に出席し、非常に厳しい公式の古い「ドクター」達のチーム(すなわち、率直に言って、我々のアプローチがどれだけ患者に有益だったかとは無関係に、単に我々の好結果を妬み、「競争」を望まないように見えたMD達)と対峙した。
彼らはただ、我々が何者であると考えているのか、我々がなぜ「違法な」活動を続けることを「許される」と考えているのかを知ることだけを求めた。
 
非常に熱心で恐れを知らない若い実践者と同様に、我々はそのような馬鹿げたルールに反論する準備をしているだけではなかった。
医学的マニピュレーションを実践するための訓練をまったく受けていない医師がこれらの形式の治療を提供する法的権利を持っていて、4年間の理学療法の修士を持つ元PTでオステオパシーの実践者として更に5年の訓練を受けたDOがその権利を持っていないことを論理的であると思うのかどうか、このMDの委員団に尋ねるくらい我々は大胆であった。
彼らの反応は、予想されていた通り、沈黙と疑念であった。
 
我々はそれから、我々がDOの学位を取得した英国では、オステオパスが完全に受け入れられ、認められていることを指摘した。
これはMD達の疑いをいくらか和らげた。
しかしそれでも、法律は変わらなかった。
そして我々は以前の通りオープンに仕事を行った。
まだ違法ではあったが。もちろん、ずっと稼ぎの中から税金を払いながら。それは、未だに多くの国で行われていることである。
 
この対立の少し後に、私の親友の一人、Edouard Dock(ナミュールのDO)が、さらに別のMDによって訴えられた。
非常に強い団結の誇示として、当時パリ北大学医学部の学部長だったPierre Cornillot教授, MD, PhDがEdouardのために仲裁した。
彼はベルギーのDOが常にフランスとの国境を渡ってパリ北大学でフランスのMDにオステオパシーを教えてきたが、これらの同じDOが彼ら自身の国では公式に認められていないという矛盾をベルギー法廷の当局者達に示した!長い法廷闘争の後、そして態度の変化の心強い提
示として、この訴訟の最終的な結果は1ベルギーフラン(すなわち2USセント以下)の罰金であった!


頭蓋領域のオステオパシー(OCF)

 
そして次に、オステオパシーの中の我々の専門のトピックに目を向けよう。
賞賛されるに値する頭蓋領域のオステオパシーである。
私は最初に最大の敬意を持って、1979年6月すなわち私がESOから卒業する直前に、John Upledger, DO, FAAOが頭蓋オステオパシーの導入を示すために学校を訪れたことを話したい。
これが我々が初めて一次呼吸メカニズム(PRM)に対する脳脊髄液(CSF)の関係に触れたことであり、我々すべてがJohnの説明に深い感銘を受けた。
さらに幸運なことに、我々は次の夏に南フランスのニースでJohnが指導する5日間のコースに出席することができた。
 
私は後ほど、Johnが商業的な利益として認知されているものに基づいて「裏切り者」と明言され、無資格の実践者を通した「彼の」頭蓋仙骨治療を助長していることで非難されていることを知った。
しかしながら、オステオパシーのもう一つのビジョンに我々の目を開いたのは彼であり、彼がOCFの診療におけるアメリカ人指導者ともっと広く、もっと頻繁にコンタクトし続けたいという我々の希望の原因となった人であるという事実が小さ
くなるわけではない。
 
1980年10月、私は私にとって最初のSCTFベーシック・コースを終了した。
それは、ロンドンのBritish School of Osteopathyによって主催された。我々の最愛のAnne Wales, DOに加えて、Colin Dove, DO、Jack Duval, DO、そして私の魂の兄弟Herbert Miller, DO, FAAOが、このコースのための素晴らしく優秀な教員に含まれていた。明らか
に、そのコースは素晴らしかった。
そして我々がメイドストーンやニースで触れた何よりもはるかに優れていた!しかし真剣に、その後に続いたことは、これらの関係を続けていきたいという抑えられない欲求であった。
それが、その時から私がOCFの指導者、メンター、チャンピオンらを紹介され、さらに紹介されるようになって大西洋を横断することを止められなくなった理由である。
 
私は1983年にRollin Becker, DOに初めて会ったことを非常に良く憶えている。
それは、コロラドスプリングスでの私の2度目のSCTFベーシック・コースでのことだった。
私は自分がOCFの「法王」に会っているのだということを知っていたので、彼がラボ・セッションの時にこのように自己紹介したことに非常に驚いた。
「ハイ、Daniel、私はRollinです。私にお手伝いさせて下さい!」その当時、彼がコース参加者と話すことがどれだけ稀なことであったのかまったく知らなかったことは幸運であった。
そうでなければ、私は舞い上がってしまって礼儀正しい印象を与えることができなかったかもしれない…
 
その時コロラドでは別の非常に重要な初の会議が行われた。
私はDr. Didier Feltesse(フランスのMDで理学療法士でもDOでもあった)に会う栄誉に恵まれた。
彼は私にパリに来て、ボビニーの医学施設でオステオパシー医師になりたがっているMDにOCFを教えてみないかと尋ねた。
そのプログラムは1983年から始まった。そして講義は3年にわたって1ヶ月に1回週末に行われた。
それから、1984年に、我々ベルギーのオステオパスの3人が初めてGOT(General Osteopathic Treatment:全般的オステオパシー治療)のテーブル・トレーナーとして、そして後に、講師として選ばれた。
Pierre Dudy, DOとJean Burnotte, DOはバイオメカニクスを教えた。
そして私は、OCFのパイオニアとして、1985年にDr. Sutherlandの生涯と教えの完全な概要を示す責任を与えられた。
我々は10年間これらのコースを実施した。新しく卒業したオステオパシーの生徒の数人(彼らはフランスのシステムを通して達成したためMDでもある)が、医師ではないDOがMDにオステオパシーの訓練を続けることはもはや適切ではないと決定するまで…

それが存続していた間、この優れたプログラムは「DUMENAT」すなわち、「Diplôme Universitaire en Médecine Naturelle - Section Ostéopathie」と呼ばれていた。
私が教えた中で最も優秀な生徒の一人はDr. Maurice Bensoussan, MDであった。
彼は非常に熟達した口腔病専門医であり、すぐに卓越したDOになった。
そして後に、知っていると思うが、最初の「国際FCA」となった!
Mauriceに関して、5年前、彼がAMOC(Académie Médicale d’Ostéopathie Crânienne)の会長を務めながら、公式にフランスの医者ではないオステオパスにパリのOCA導入頭蓋コースの門戸を開いていたことに言
及しておくことが重要である。このステップは、フランスにおけるNP-DO(非医師DO)
に対する重要なタイプの区別の終わりを意味した。
唯一の制限(合理的なもの)は、参加者がオステオパシー実践者のための公式なFrench Recognized Affiliate Society に所属していることである。
 
John Harakal, DO, FAAOは、SCTFの当時の会長として、さらにもう一つの優れたコンタクトとなった。私は1984年にテキサス州フォートワースでの私の3度目のSCTFベーシック・コースの際にJohnに会った。
Texas College of Osteopathic Medicine(有名なTCOM)の広大なキャンパスは、私を大いに興奮させ、このグループの一員であることを誇りに思った!
そのベーシック・コースは素晴らしく、最適な進展を確実にするためには2回以上ベーシック・コースに出席することが常により良いことであるということが再び証明された。
とにかく、素晴らしいコース内容に加えて、Johnは我々のために、彼の家で、我々が間違いなく決して忘れることができない素晴らしいテキサスビールのテイスティングも用意してくれた!
 
その同じ年、Belgian Society of Osteopathyは素晴らしいSCTF頭蓋コースに続いて、2度目の盛大な国際会議を主催した。
このイベントの祝賀会として、私は委員会の名士の数人をワーテルローの近くのラスンにある自宅(今でもそこに住んでいる)に招待した。
特別なベルギービールとチョコレートのテイスティングのために。これらのVIPには Ann Wales、Herb Miller、Richard Feely、Lorane Dick、Fred Mitchell, Jr.が含まれていた。
Fredはその時、その名前から、有名なベルギーのビール「Kwak」をオステオパシー・プロフェッションの公式ビールにすべきであると冗談を言った。
もちろん、それは皮肉である!
 
この友好的な行事の後、私は米国でSCTFの中級およびアドバンス・コースに出席する特権を得た。
その参加者の熱意は以前と同様に限りなかった。
その時、SCTF委員会のメンバーが個人的なミーティングに私を呼び出した。
なぜ私がこれまで彼らのコースのために意欲的に旅してきたのかを尋ねるために。
彼らは実際に少し疑わしいようであった!
幸いにも、私は、彼らすべてに感謝することだが、自分が常に夢見てきた治癒へのアプローチを見つけたということを大きな確信を持って答えることができた。
彼らはベルギーにおけるオステオパシーの地位についても尋ねた。
私は、認知は得ていたが、それでももっと広く知れ渡るに値すると答えた。
そして私は、ベルギーとヨーロッパでオステオパシーを奨励するためにできることは何でもすると誓った。
 
ヨーロッパ全体を通してのオステオパシーについて話せば、私はここで、European School of Osteopathyの教員に深い感謝を表明したい。
彼らは私がそこで過ごした5年間に多くのものを与えてくれた。
この経験は、1986年にESOの学長Tom Dummer, DOが私に彼の教員に加わるよう依頼してきた時、1周して元に戻った。
そこで私はOCFをフランス語でその学校の定時制の学生に教え、応急処置とCPRを英語で全日制の学生に教えた。
 
5年後、1991年に私はBelgian Society of Osteopathy(SBO)を代表してSCTF委員会の准会員になるという滅多にない栄誉を受けた。
私はすぐに、この代表の一人として、訓練のために米国へ旅する時間やお金を持っていないベルギーの同僚達とOCFの診療を共有したかった。
そして我々Belgian Society of Osteopathyの委員会メンバーは、これを達成するためにベルギーでのコースを主催し始めた。
 
我々にはこれらのコースを指導してもらうためにアメリカのDOを招待するという素晴らしい機会があった。
そしてJohn Harakalは、ブリュッセルに来てOCFの導入を講義して欲しいという我々の要請を丁重に受け入れてくれた。
この同じ時期に、我々はブリュッセル市のサポートでオステオパシーの「社会福祉クリニック」も確立した。
それは、1週間に2回、半日オープンした。
この無料クリニックは、ベルギーの首都の最も貧しい地区にあった。
そこで、本当の貧困の現実が何であるかを目撃した。
Johnはそのクリニックの公式開業式に、ベルギーの政治家や聖職者と共に参加した。
そのクリニックのマネージャーとして、私はベルギーのすべてのDOに毎月半日の無料治療を提供するよう依頼した。
彼らは同意した。そして、この素晴らしい協力の結果として、オステオパシーは非常に急速にベルギーの人口のより大きな階層の認識を得た。
遂に、オステオパシーはベルギーにおいて広く行き渡った名声を獲得した。
 
この時点で、John Harakalは特有のリーダーシップを示し、ベルギーでSCTFベーシック・コースを主催することを助けるためのSCTF教員メンバーの数人を任命すること、ならびにベルギーの志願者が講師およびテーブル・トレーナーになるための訓練を行う特別
コースを提案した。
このコースは、非常に論理的に、「Train the Trainers(トレーナーを訓練する)」と名付けられた。
 
私の熱心なベルギーDOのグループは、2日間の3つのセッションでそれぞれJohn Harakalと彼の教員メンバーによって指導された。
そこにはEdna Lay, DO, FAAO、Melicien Tettambel, DO, FAAO、Viola Frymann, DO, FAAO、Eric Dolgin, DO, FCA、そしてJim Jealous, DOが含まれていた。

参加していたベルギーの志願者は、Agnes Engelen, DO、Pierre Duby, DO、Claude Hannard, DO、Christian De Brabandere, DO、Luc Lecoq, DO、そして私自身であった。
我々全員が首尾良くセッションを完了し、それからすぐ後に、SCTFベルギーの委員会メンバーになった。
それは1995年に創設された。
その後まもなく、Tom de Lille, DOとDanny Debouver, DOも委員会に加わった。
副会長と秘書として。そしてこの友人達の素晴らしいチームが完成した。
 
SCTFベルギーの会長として、私はベーシック・コースのディレクターになった。我々は毎年Edna Lay, DO, FAAO、Melicien Tettambel, DO, FAAO、Edgar Miller, DO,FAAO、Herbert Miller, DO, FAAO、Michael Burruano, DO, FCA、Kenneth
Graham, DO、Dan Moore, DO、そして英国からSue Turner, DOの寛大な援助と共にそれを提供した。
そして、我々は全部で500人以上のDOを訓練した!
 
我々は後に、Douglas Vick, DO、Rachel Brooks, MD、Louis Hasbrouck, DO, FCA、Stefan Hagopian, DO, FAAO、Andy Goldman, DO、Kenneth Graham, DO、Miriam MILLS, MD、そしてまたMiller達(有名なHerbとEdの二人組、適切には「ザ・カズンズ
(いとこ)」と言われている、たとえ彼らが生物学的に関係ないとしても)の援助と参加によってアドバンス・コースも主催した。
 
さらに、ベルギーにおけるこれらのコースのための場所の選択が、我々のために訪れてくれたアメリカの講師達によってなされたのではないことも指摘しておきたい。
それらの選択の中には、素晴らしいグラン=プラスのあるブリュッセル、素朴な中世の建築物と雰囲気のある運河のブリュージュ、歴史的な海辺のロケーションのオーステンデ、有名な要塞のナミュール、そして最後に、美しい都心と歴史的な港を持つアントワープとヘントが
あった。


クラニアル・アカデミーと私の物語、CAからOCAへ
 

1982年から、私はOCAの忠実なメンバーである。そしてこのように米国中で数多くの頭蓋会議に参加してきた。
アリゾナ州ツーソンでの9年前の会議(それはEric DolginとMark Rosenの間での会長職の移行の間に開催された)で、Markは我々国際的参加者のグループ(そこには私の同僚と仲間のベルギーDO、Marie-Blanche Surnyが含まれてい
た)に接触し、国際的DOのコミュニティのために委員会と公式に接触する役割を果たす代表を任命するための投票を行うよう要請した。
しばらく後、私の他に誰も立候補を表明しなかったため、まったく地滑り的に完全に無投票の当選を「勝ち取った」…。
 
その時、私はクラニアル・アカデミーが実際に何であるのかを発見する驚くべき経験をし始めたため、その時の私の同僚達のサポートに心から感謝する。
国際委員会のメンバーとして、私はアカデミーの感嘆すべき複雑性、そしてさらに際立ったのは、アカデミーの委員会メンバーの惜しみない援助に対する深い認識を得るようになった。
1年につき3回、6月、10月、3月、それが過去9年間、私はMark Rosen, DO, FCA、Mel Friedman,DO, FCA、David Musgrave, DO、Zina Pelkey, DO、そして現在Dan Shadoan, DO会長の下、すべての委員会会議に出席した。
 
おそらく、2007年に私が初めて委員会に参加した時、准委員会メンバー(1人のMD、1人のDDSと1人の国際DO)は投票権がないメンバーだったということは知っているだろう。
私にとって、これは特に生産的ではないように思えたので、私は国際小委員会の共同議長として、Mark Rosenの助けを借りて、OCAのポリシーを更新して、准会員を投票権のある正会員にさせるよう他の委員会への説得を試みた。
 
この後、Cranial Academy(CA)からOsteopathic Cranial Academy(OCA)に名前を変えるという歴史的な決定がなされた。
「OCA」という文字は1948年の発端より続く我々のグループのイニシャルであるが、その当時には「A」の文字が「Academy(学会)」ではなく「Association(協会)」を表していたという点に注意することも非常に興味深い。
 
私は長年におよぶクラニアル・アカデミーの会員の期間の中で唯一つだけ失望した思い出がある。90年代、私が10年以上実践してきた後、私はクラニアル・アカデミーの実力試験への参加を拒否された。
それは、アメリカのDOのために厳しく保持されていた。
しかしながら、この出来事は、5年前、私が最も素晴らしい友人の2人、Dr. Maurice Bensoussan, MD, DO, FCA(当時のAMOCの会長)とDr. Jean Le, MD, DO(Mauriceの跡を継いで会長となった)と共にアメリカの試験と同等の難しさの国際実力試験を組織するに至った触媒にもなった。
それ以来、かなりのパーセンテージのMD-DOとNP-DOがその試験を受けてきた。
それは、17の異なる国と認定された加盟団体を代表する約100人の国際メンバーの中から20人がその試験にパスして、OCAから公式に認められたことを意味している。
 
比較のため、その試験を試みたアメリカのOCAメンバーの数は800人中わずか130人である。
OCAの教員メンバーまたは委員会メンバーになるためには、この実力試験の証明書を持っていなければならないということを私はここにいるすべての人々に憶えていてもらいたい。どうか、将来この試験を受けることを検討して下さい。ここにいるすべての人は、間違いなくそれをパスする能力を持っています。
そして、我々は常にフレッシュな新しい委員会メンバーを探しています!
 
数年前、国際的NP-DOのためのクラニアル・アカデミーのメンバーシップのルールが非常に厳しくなり、すべての可能性のあるメンバーがNational Osteopathic Associationに所属するか公式な加盟登録を行うことを要求されるようになった。しかしながら、それ
以前にはそのような制限が存在しなかったため、結局は公式または国家的認定を持っているメンバーと持っていないメンバーの混合になってしまった。
これに応じて、我々は2つの異なる会員カテゴリーを設けた。
1つは認定された加盟団体(RAS)に所属しているDOのためのものであり、もう1つは所属していないDO(愛情を込めて「グランドファザー」と呼ばれている)のためのものである。
 
しかしながら、これはまだあまりに矛盾しており、委員会はより良い解決策を見つけることを望んでいる。
そのため、我々は昨年再びOCAメンバーシップのポリシーを更新した。
我々の現在の主な2つの要求は、非常に堅固なプロとしてのバックグラウンドと最低3回の頭蓋会議への出席である。
このポリシー転換の有益な影響の傑出した例は、日本からの最も忠実なDOである山本逸二である。
彼だけがこれらの更新の後、OCAメンバーになる資格を持つことになった。
もちろん、我々は日本がすぐにオステオパシー専門職の正式な認定を提供することを望んでいる。
しかしその時まで、我々は国家認定がまだ可能でないが相応しいメンバーを歓迎するための手段を持っていなければならない。


WILLIAM GARNER SUTHERLAND:
私が常に会うことを夢見ているメンター
 

オステオパシーへの生涯の探究に加えて、私は20歳から、いくつかの刊行物のためのフリージャーナリストとしても働いていた。
 
私の最も大きなコラボレーションは、Parents誌とのものである。知っているかもしれないが、それは医師の待合室で最も読まれている雑誌である。
私はParents誌のために約40の記事を書いてきた。
素人が親しみやすい言語でオステオパシーのトピックスを説明してきた。
そしてこれらの一部は今でも www. osteolasne. be の私のウェブサイトで読むことができる。
 
これらのジャーナリスティックな経験により、私はWilliam G. SutherlandがDr. A. T.Stillと初めて会った時にはジャーナリストとして働いており、インタビューを行ったということを学んで大変嬉しく思った。
SutherlandはDr. Stillのメソッドに極めて大きな感銘を受け、彼の医学に対する革命的なアプローチについて非常に熱心に報告した。
彼はそれから、このコンタクトの結果として、Dr. Stillの個人指導の下で非常に短い期間でDOの学位を修めた。
それに続いたのが、Sutherlandの有名な「破裂する頭蓋骨」の発見であった。
おそらく彼の過去のジャーナリストの経験に感謝しなければならないが、彼はそれを高い精密度で記録した。
実際に、Dr. Sutherlandは現代のOCFの基礎となった頭蓋オステオパシーのための完全な原理を確立した。
そして我々は永遠に彼の卓越した草分け的な仕事の恩恵を受けている。
 
次に、Dr. StillとDr. Sutherland両氏の発見の現在の適用に目を向けてみよう。
昨年、フロリダ州ネイプルズにおいて、Mark Rosen, DO, FCAはDr. StillとDr. Sutherlandのオリジナルのアイデアと意図のいくつかに関して素晴らしいプレゼンテーションを行った。

これらのトピックス(それは過去の会議においてRollin Becker, DOとJim Jealous, DOによっても講演された)を通して、我々はスティルネス(静寂)とフルクラム(支点)の重要性を思い出した。
 
初心者のオステオパスがこれらの感覚を直ちに感じることはほとんどない。
しかし、彼らはその感覚が実際に存在するという信念を持たなければならない。
そして彼らもまた、ある日それを感じるだろう。
新しい実践者に最初の感覚、それから信頼、これらの感じを教えることは、より経験豊かなDOの責任である。
そして我々は同情と愛を持ってこれを行うことに努める。愛することは、実際には、分かち合うことである。
そして我々の生徒がまだ一貫して感じることができないものを理解するために、我々が彼らをガイドしていかなければならない。
その勝利は彼らが最終的に、そして突然に感じた時に訪れる。しかし、その感覚は不慣れな実践者が疲労するか注意力が低下すれば感じられなくなるだろう。
もちろん、それは失敗ではなく、単に個々のオステオパスの触診能力の進化において前進
するためのさらなるステップなのである。
 
我々は常に自分自身の触診でより多くの成功を発見することを夢見ており、我々の新しい同僚達が絶えずより深く掘り下げることを助けたいという強い欲求も持っている。
我々はしばしば、「DO」は「Dig On !(掘り下げろ!)」を表していると言う。
これを心に留め、私は常に次のOCA会議を楽しみにしている。
そこでは、毎回、我々は絶えず進展している我々の必要性を満たす説明を発見し検討する。
 
リサーチのトピックスに目を向けると、いくつかのMDのグループが、さらに「科学的な」実験が我々のメソッドの信憑性を強めると助言してくれている。
しかしながら、その問題はいわゆるEBM(根拠に基づく医学)が、通常は、健全の全体的状態よりもむしろ隔離された基準に基づいて調査されなければならないということである。
したがって、このモデルを用いてOCMMの利点を定量化し記録することは、ほぼ不可能である。
Jim Jealousが言うように、「すべてのフルクラムがシンクロしている時、健全が現れる。」
すなわち、人がオステオパシーによる驚くべき結果を認めるのは、身体の健全を全体的に見る時だけであって、システム単位で見る時ではない。
我々は、アロパシー実践者のEBMに基づく診療が約30%でしかないということにも言及することができるだろう。
それでは、返礼として、我々は彼らに他の70%の使用を止めてしまってはどうかと提案すべきだろうか?


患者としてのDO
 

このEBMの不足にもかかわらず…、私は米国への訪問の間に、数多くのエキスパートから完全なオステオパシー治療を受けるという最高の特典を与えられた。
これらの我々のプロフェッションのスター達には、Louis Hasbrouck、Herbert Miller、Edna Lay、Edgar Miller、Melicien Tettambel、Richard Feely、Paul Lee、David Musgrave、そしてMelvin Friedmanが含まれている。
さらに、ラボ・セッションの間、私はあなた方と共に数多くの驚くほど異なるアプローチを発見してきた。軽くてソフトなものもあれば、
重くてより「断定的」なものもある。しかし、その結果は著しい好結果である。
我々すべてが異なったアプローチを用いる。
しかし、我々が常に共通して持っているものは、身体の反応、組織の反応、LCRの波動の触診、そして最後に、同調と静寂を達成する目的に対する大きなリスペクトである。
我々はこれを「多様性の内部の統一」と説明する。
そして、これは我々プロフェッションをダイナミックで力強いものにし続ける要素のうちの一つである。
 
我々全員が確実に同意するように、我々の一番の任務は自分たちの患者を助けることである。
そしてこれを行うために、我々は彼らの組織の反応を根気よく待たなければならず、そして常に最高の質のケアを提供しなければならない。
これは必ずしも患者に「働き続ける」ことに費やす時間に関するものではなく、むしろ我々が提供する治療の質に関するものである。
私はオステオパシーに対して非常に懐疑的な多くのMDに出会ってきた。
彼らは、我々の結果は単なる「プラセボ効果」であり、患者との「手による友好的な接触」の唯一の価値は、良いケアであるという印象を与えることだと言っている。
しかしながら、これらのMDの多くが、個人的にオステオパシー治療を受けた後、自身の軽蔑的な意見を一変させたことに注目することは励みになる!


触診を学んでいる学生への激励
 

私は非常に巧妙に自分がより大きな理解へ向かうことを助けてくれ、例えば私の指、足、あるいは頭のポジションを変えるよう非常に慎重にガイドしてくれた同僚達の洞察力にして、決して十分な感謝を表すことができない!
彼らの指導によって、私は彼らが非常に気前よく説明してくれ与えてくれたものをより速く理解し、吸収することができた。
我々は常に我々のプロフェッションの中で非常に高いレベルの教育に出会ってきた。
それは常に親切で支えとなるよう注意していた。例えば、我々がラボで練習している時、参加者が関連性のある誠実な賛辞を受けることは、これらが彼らの進歩の意識と喜びの両方を高める助けとなるため、最も励みになる。この原動力の素晴らしい支持者は、我々の親愛なるAnn Walesであった。
彼女はベルギーでの2回目の国際会議に参加し、私は彼女と多くのSCTF委員会会議に参加した。
彼女は常にとても親切で、非常に気前よく説明してくれた。
それは例外なく、非常に豊かで有益であった。
 
私はここで、Dr. Rachel BrooksとDr. Miriam Millsについても言及したい。
彼女らは、MDとして、オステオパシー医学への移行を鼓舞する2つの例である。
彼女らは、まさしく、オステオパシーへ通じる自分たちの新しい道に対して本当に誇りを持っており、常に自分たちの最新の発見を熱心に共有したいと思っている。
親愛なるRachelとMiriamに再び感謝します。

そして最後の敬意として、最大の愛情を込めて、私のメンター達、Dr. Edna Lay, DO,FAAO, FCAとDr. Anthony Chila, DO, FAAO, FCAに感謝したい。
彼らは米国オステオパシーのコミュニティと我々との関係の最初期から常に助言を与えてくれて、我々の「小さなベルギー人」の小さなグループを保護してくれた。
我々の関係は本当のhistoired’amour、すなわち真のラブ・ストーリーであった!


SMLの出版
 

そして我々の素晴らしい歴史について言えば、私はやがて公開される1958年から今年まで通したすべてのSML(Sutherlandメモリアル・レクチャー)の出版について少し話がしたい。
2年前、Mel Friedman, DO, FCA、Mark Rosen, DO, FCA、そして私は我々の委員会メンバーとしての立場において、すべてのSMLの出版を提案した。
これは我々のメンターとリーダーに対して最大限の敬意を示すことにもなったし、これらの重要な講義の筆記録を世界中のDOが利用できることを確実にするものにもなった。
この歴史的な仕事は、Hugh EtlingerのSMLの後、2015年に出版されることになっていたが、800ページ以上のテキストが予想された工程よりもずっと長くかかってしまったため、我々は最終的な期限に間に合わせることができなかった。
しかしながら、幸いにも、我々は現在、その概要が2017年に利用できるようになると約束することができる。
私は今日のSMLがこの仕事の一部として含まれるとは決して思っていなかったと言わなければならない。
そして、私はこの名誉に対して非常に謙虚な気持ちになる。


結論
 

アメリカの医師であるDO、ならびに国際的な医師および非医師DOは、我々が誇りを持って本物のオステオパシーの原理を受け入れ、擁護し、利用しているという事実に素晴らしい団結を見出す。
実際に、今日ここに集まっているあなた方は、最も純粋な形でオステオパシー医学を実践している。
そして、それによって伝統的オステオパシーの恩恵が将来の世代のために存続することを保証している。
 
ベルギーにおいて、我々は一つのモットーを持っている。
「L’Union Fait la Force」それは、「団結が強さを生み出す」という意味である。
これは、国際的オステオパスのコミュニティの現在の状態を明確に説明しており、また世界中のDOがオステオパシーの原理を奨励し、保持するためのコラボレーションを続けなければならないという事実を補強している。
それに加えて、我々は自分たちの内部の多様性が我々の強さに不可欠な要素であることを意識し続けなければならない。
我々は皆、異なるアプローチ、バックグラウンド、
資格、そして認識を持っているが、我々のスキル、経験、そして理想によって団結し続けている。

最後の意見として、私は我々のリーダーとメンターに対してもう一度最も深い感謝を表明したい。
私は彼らの教えを守り、実践することに自分の人生を捧げてから、永遠に変化した。
私は本当に、「生命の息吹」(私は個人的にそれを「愛の息吹」とも考える)を発見することに従う新しい人間になった。
これは第一に我々の仕事の性質に起因するものである。
そして、それはすべての人間の身体内部に存在する治癒力を愛情を込めて活性化する。しかしながら、それはまた確実に、このプロフェッションの中で、特に、今日ここにいる本当に別格の治療者のグループから経験してきた驚異的な量の愛、ガイダンス、サポートにも起因している。
 
今日、私の個人的な「国際的DOの旅」の経験を聞いてくれたことに本当に感謝します。
そしてまた、さらに熱烈に、この素晴らしいプロフェッショナルと友人達のグループの中に我々国際的実践者を受け入れてくれたことに感謝します。
私の最大の喜びの一つは、Osteopathic Cranial Academyの国際メンバーであることであり、そしてあなた方全員と一緒に集まることは常に計り知れない特権です。
OCAと国際的DOのコミュニティとの継続した関係は極めて重要であり、私はしたがって、他の国際的非医師DOが私に取って代わるまでOCA委員会メンバーに留まることを誓います。
 
再び、今日のあなた方の配慮に、そして今年のSutherlandメモリアル・レクチャーで講演する非常に大きな栄誉に感謝します。
Merci mille fois、すなわち、1000回感謝します。
そしてまた会う時まで、さようなら。

最大の愛情を込めて、敬具、

Daniel Ronsmans, DO